(二)後半


 この欠点が晩年に持ち越されたか否かは後述するが、ともかく綱造時代にその欠点が存在した若大夫を、「あのブルブル言う癖」と批判される倉田氏が、積極的に評価しておられたとは思えない。
 倉田氏にとって若大夫は、綱造の三味線だから聴けた、あるいは綱造のタクトについていくのが精一杯の若大夫だけは、辛うじて容認できる、ということであろう。つまりは豊竹若大夫を、綱造相三味線時代であれ、晩年であれ、あまり買わない、という姿勢である。これは決して倉田氏特有のものではない。大阪の劇評家、聴き巧者には、そのような人がすくなくなかった。
 基本的に若大夫を買わない、という姿勢を持っておられた、と筆者が承知しているのは、故人では山口廣一氏、吉永孝雄氏であるが、ほかにも何人かおられたと思う。山口氏、吉永氏の若大夫評については、「年譜」にいくつかの引用がある。現在活躍中の方でいえば、前記倉田喜弘氏、及び水落潔である。
 水落潔氏は、早稲田大学文学部演劇科時代に、二年下の新入生の筆者に「武智鉄二の『かりの翅』を読みなさい」と教えて下さった先輩である。同氏に、昭和三十年代末頃であったか、若大夫の芸は如何か、と質問したところ、「買わない。正しい大阪アクセントではないと思う」と言われた。鋭い指摘である。この点に関し、故五世呂大夫師は、昭和四十二、三年の時点で「若大夫師匠には大阪訛りがないのです」と言っていた。昭和前期の文楽における三頭目、三世津太夫、六世土佐太夫、二世古靱太夫が、三人とも非大阪出身者であることを嘆ずる『浄瑠璃雑誌』の記事を思い出し、東京人の筆者にはいささか痛快であるが、呂大夫師が関東出身で、しかも若手時代の発言とあっては、これだけで、大阪の聴き巧者を納得させることはできないであろう。
 さて133頁のCOE講演会報告に記す通り、二〇〇三年二月十八日、COE演劇研究センター講演会「浄瑠璃(義太夫節)の伝承」で、講師九世竹本綱大夫師が、二〇〇一年七月大阪国立文楽劇場公演で語られた「日蓮聖人御法海 勘作住家の段」を取り上げ、この曲を同師がどのように受け継いできたか、を話された。現綱大夫師は、周知の如く、故八世竹本綱大夫の高弟で、父は昭和二十七年以後の豊竹山城少掾の相三味線鶴澤藤蔵、十世豊竹若大夫は、同師の大おじに当る。昭和二十一年、十四歳で八世綱大夫(当時四世織太夫)に入門して織の大夫を名乗り、八世綱大夫が織の大夫を若大夫(当時三世呂太夫)の許へ、目の不自由な若大夫の手引きを兼ねる形で稽古に行かせた。若大夫から「日蓮聖人御法海 勘作住家」の稽古も受け、その後、昭和二十四年二月、十七歳で豊竹山城少掾・四世鶴澤清六の「勘作住家」の白湯汲みをした。(詳しくは133頁参照。)
 大阪の劇評家が挙って評価し、我々浄瑠璃研究者も、現在その学恩に浴している八世綱大夫の高弟で、近代文楽の最高峰山城少掾の薫陶も受けている現九世綱大夫師に筆者は、「若大夫の浄瑠璃は、義太夫節として正しくないのか」と質問した。綱大夫師は「正しい」と答えられ、「若大夫は徳島出身で詞に阿波訛りは残るが、それは義太夫節としての正しさを妨げない。若大夫の浄瑠璃が持つ阿波風の泥臭さは、若大夫の魅力でもあるのではないか。」と言われた。
 若大夫の浄瑠璃に脈打つ「古風で泥臭く」野性的な阿波の血には、生粋の大阪風浄瑠璃をよしとする上方聴き巧者に、拒否反応を起こさせるものがあった。六十歳前後までの三世呂太夫が、太夫陣の重鎮の一人として在る間はともかくも、豊竹若大夫を名乗る三和会<注(9)>の紋下格となれば、欠点を論わずにいられない、ということであろう。山口氏も吉永氏も倉田氏も、おそらく水落氏も、若大夫を全面的に否定される訳ではない。山口氏、吉永氏の「年譜」引用劇評には、若大夫の実力を認めているものもある。倉田氏は筆者に、世話物では欠点が目立たない、と言っておられた。
 倉田氏、水落氏が本稿に目を留められて、筆者の誤りの御指摘や、より詳しい御見解を御聞かせくださるならば幸いである。

三に続く