(三)前半


 豊竹若大夫に対する、劇評家、聴き巧者レベルでの評価を整理すると
  A 昭和二十五年から四十一年まで、一貫して、あまり評価しない。
  B 綱造没後、昭和三十年代中期以後、晩年の若大夫を高く評価する。
の二つに分れる――綱造時代のみ評価、
を立項する必要性は実質的に乏しい――と思われる。Aの立場をとる人は、そもそも若大夫の浄瑠璃を論考すること自体に関心が薄いであろうから、Bに焦点を合わせるとして、それでは昭和三十年代半ばから、若大夫の浄瑠璃はどのように変化して、評価されるに至ったのか。
 まず前記の「不明瞭」「晦渋」「震え声(ブルブル)」という欠点につては、八世綱大夫談で言及されてはいるものの、
 若大夫はひところより言葉も粒立って、大変わかりよくなった。こうなるとハラは強いし、ひと時代前の輪郭の大きな芸風が生きて来て「増補布引滝」のおもしろさを満喫させる。(東京新聞・浜村米蔵35・2・4 昭和三十五年二月東京三越劇場評)
「松右衛門内」は若大夫・勝太郎で時代物語りの本来の姿、標本である。人情の機微にふれる権四郎がうまく、うなりや濁りがまじらずに、小刻みな詞も明瞭である。いつもの癖の不用意不必要な音の強まりも耳障りでないのは、開口一番ぶっ放す音の多いこの場の故でもあろうか。樋口の豪放さのあとのお筆嬉しく、なども綺麗で、滑らかにスイッチの切換えが処理された。(演劇界39・7 如月青子 昭和三十九年六月東京三越劇場「ひらかな盛衰記」評)
 このひとの欠点であることばのもつれがなく、一字一句手に取るように、ふしと地合いのおもしろさ、そしてそいつがわれわれの日常の会話のように聞き取れる。(東京、39・6・4 浜村米蔵 同右。)
とあるように、晩年には基本的に克服された。仮に不明瞭な部分が残ったとしても、別の面で、
 (「合邦」後半は)嫉妬の乱行と見せた女の執念の強さを表現する。若大夫の熱演で湯がたぎって行くような盛り上がりとなる。(演劇界39・8 北岸佑吉 昭和三十九年七月大阪朝日座評)
 独特の語り口のキズも目立つ代りに、誠に威風堂々と『尼ヶ崎』後を語る。光秀の大落しでは、正に大粒の熱涙がこぼれ落ちて場内を満たすように、重量感を出した。彼の存在は浄瑠璃本来の道を雄々しく歩む選手として、文楽に於る一つの財産だ。(演劇界39・11 如月青子 昭和三十九年十月東京芸術座評)
と、キズを補って余りある説得力で聴かせた。右の北岸氏「合邦」評に近い時期のNHKカセット「合邦」には、不明瞭さはまったくない、と言ってよい。
 では、六十代、相三味線名人綱造の時代ではなく、若い勝太郎<注(10)>が弾く七十過ぎてから「わかりよくな」り、説得力が増したのは何故か。若大夫の中で、六十年来醸成され続け、特に綱造の指導で大きく前進した浄瑠璃の芸が、昇華され、独自の形で完成の域に達し、「ここ一番」がきまるようになったからであろう。その前段階を、的確に描写するのが、安藤鶴夫氏が『演劇界』及び『演劇評論』に書かれた綱造時代の若大夫評である。
 権太の“貧乏ゆるぎもさせませぬわい”を、冗談いふなといふ風に詰めてきゆうッといつておいて、すぐ梶原がさうかさうかと嬉しさうに“テさて気【け】なげな”といふ変り方の呼吸の面白さ“褒美の金忘れまいぞ”を語尾を愁ひに落すといつたいき方でなく、遠くへ声を掛けてゐる風に語つてゐるのも一見識であらう。
手負ひになつてから、ひいひいと苦しんでおいて“親父どの”と呼び掛けると“えゝなんぢやいッ”といふ人物の変り目の早さなどは、まるで二人で語つてゐるやうな切【せっ】迫感があつたといふよりも恐らく掛合いでは出せない呼吸のよさといふべきであらう。野太く、汚くつて、古色一杯の見事な権太で、弥左衛門と梶原が権太に次ぐ出来である。
これでお里に艶【つや】があつて維盛に品があつたら、まことに見事な“すしや”だが、お里の“たとへ焦れて”の一節などは、艶のない語り口を心情一杯でカバーしてゐる。
一方若太夫の弱点は、近来その風格を大きくして、次第に消えてはきたものゝ、冒頭の一句を被つて強く語り過ぎる弱点がまだ残つてゐることで、例へば“可哀や金吾は”の“可哀や”が強く被り過ぎるために、“タわいや”と聞えたりすることで“過ぎつる春の頃”の“過ぎつる”なども、同様の弱点がある。浄瑠璃を真ッ向から正直に大きく語らうとしてゐるいき方は、双手を挙げて賛成だが、同時にどこもかしこも語り過ぎるといふ難点も生れてくる。若太夫の芸域がそこに至り着く日を期待したい。
綱造の非情ともいふべき強引な絃をぐッと押さへて語ることも、老来若太夫の必死の精進を思はせるが“御運のほどぞ”などの綱造のタヽキは驚くべきで、権太が“血を吐きました”と苦んでゐる間に綱造が二た声不思議な唸り声を出したのも面白かつた。三越劇場はかういふこまかな点も手にとるやうに分つて、東京での理想的な人形浄瑠璃の劇場であらう。(『演劇界』26・7  昭和二十六年六月東京三越劇場「すしや」評)
「入相過ぎ」のアタマに力が入り過ぎて、語尾の「ぎ」が一寸弱まつてへたるのは若大夫のいつもの欠点です。若太夫の浄瑠璃はいはば全曲緊張の連続で、特に語り出しの所謂オクリには少し必要以上に力をふり絞る感があります。つまり全曲の頭に力が入り過ぎ、そしてまた一節一節の頭にも亦おなじやうなことがいへます。(中略)
それにはまた声を腹に取るといつた風なことを非常に大事にしてゐるために、若太夫は屡々内攻して、前へぱアッと、冴え返ることに欠けることもあるやうです。例えば「義村参上仕る」でも、もつと声がぐうッと前へ出る人なのに、一度「義村」と一杯にかぶつて、それから声が内攻するので、むろん力は入つてゐますがぴいんと冴えません。そのかはりまた母親の言葉などで「破らるゝなら破つてみよ」などの「破つて」の「て」が、全く思ひ掛けないほどの強さを持つので、迫力のある浄瑠璃であることにも異論はありません。(中略)
これで時姫がもう一つはんなりと語れたらと思ひますが、近代感覚で義太夫を語る傾向が浄瑠璃をちいさくしてゐる今日、若太夫の朴訥豪快な語り口は貴重な存在です。最近頓に風格を増した芸にはなつてはきましたが、あとはもう一つ、ゆつたりとした落ち着きが欲しいと思ひます。(『演劇界』28・7昭和二十八年六月東京三越劇場「鎌倉三代記」評)
 この「太十」などを聴いてゐますと、若太夫という人は少し自分の力以上に浄瑠璃を大きく語らうとしているのではないかと思はれます。全体になにかカサにかかったものが感じられるのです、引き字或は引き字的な語尾のあるのも、或は自分の力以上に浄瑠璃を大きく語ろうとしているための一つの現れではありますまいか。それは芸品を卑しくする結果にもなりますから、力以上の無理な浄瑠璃は語らぬやうに注告しておきます。(『演劇評論』29・1 昭和二十八年十二月東京三越劇場「尼ヶ崎」評)
ここで安藤鶴夫氏が挙げられた「冒頭の一句を被って強く語りすぎる弱点」「どこもかしこも語り過ぎるといふ難点」「声を腹に取るといった風なことを非常に大事にしているために……声が内攻するので……ぴいんと冴えません」、お里につやが、時姫にはんなりとした味わいが不充分、進歩の途上で「自分の力以上に浄瑠璃を大きく語らうとしているのではないか」と思わせる「無理」や「カサにかかったもの」を感じさせること、等が、晩年には何らかの形で克服され、広い意味で「ゆったりとした落ち着き」が具わった結果、
 若大夫・勝太郎の「逆櫓」の迫力に圧倒された。七十四才とは思えぬ豪快な語り口にである。(読売36・7・6 安藤鶴夫 昭和三十六年七月東京三越劇場「ひらかな盛衰記」評)
 酒屋の段がこんどでの第一の出来だった。若大夫、勝太郎の独演だが、時代物では熱演して草双紙的な味をきかせるこの長老が、世話物でも旧い味で終始する。前半の三人の老人が嫁を囲んで親心をくどくどつぶやくような味から、お園のくどきに移って艶な味を出すのが近来の聴きものだった。(演劇界40・3 北岸佑吉 昭和四十二年二月大阪文楽座評)
と評価されるようになった。

後半に続く