(1)  『近世文芸研究叢書』第2期芸能篇の23(浄瑠璃3)に復刻がある。
(2)  豊竹若太夫襲名時は「若太夫」。高木浩志「激動の昭和文楽」(岩波講座『歌舞伎・文楽』第10巻)は太夫と大夫について、因会は「二十八年(一九五三年)一月から、番付の太夫名は「太夫」から「大夫」になる。(中略)これ以降故人を除いて大夫と表記する。」とし、三和会も「二十九年十一月(中略)この芝居から太夫名は、「太夫」から「大夫」にしているので、本稿でもそれに従った表記」と記す。高木浩志『文楽興行記録 昭和篇』は三和会二十九年十一月大阪公演に「この番付から大阪公演のみ太夫は大夫になっている」と注記。「激動の昭和文楽」の規定をふまえつつ、本稿は歴史の叙述ではないので、昭和三十年以後も現役であった太夫は、引用文や明確に太夫表記を用いた時代の事柄に限定される場合以外は、基本的に「○大夫」に統一した。後述の豊竹若太夫・鶴澤綱造のレコード「摂州合邦辻」は「若太夫」である。なお劇評などは昭和三十年の因会のものでも「○大夫」と記すことがある。若大夫に関していえば、昭和三十年七月の「豊竹若太夫一門会」の会案内刷り物も、若太夫はじめ門弟も「○大夫」である。
(3)  「十世豊竹若大夫床年譜」に挙げた御名前の全部を掲げることは略させていただくが、「十世豊竹若大夫床年譜」作成時に、とりわけ、最も基本的な資料、情報を御提供いただいたのは、高木浩志氏、倉田喜弘氏、日置教雄氏、故五世豊竹呂大夫(若大夫生前は若子大夫)氏、故中西敬二郎氏、故高野俊雄氏、長尾荘一郎氏である。
(4)  本稿引用文には、「十世豊竹若大夫床年譜」から採っているものも多く、引用誤字がそのまま残ったところもあろうかと危ぶんでいる。新聞劇評は、中西敬二郎氏に御借りした貼込帳から筆写させていただいたものである。
(5)  二月十九日は記録録音・録画日であった。二月九日(二日目)に聴いた時は「現在の文楽の一つの水準、好演の部に入れ得るもの」とは思わなかった。
(6)  「若太夫を襲名して 呂太夫改め十代豊竹若太夫」(『幕間』25・12)。なお、八世竹本綱大夫の著書でも(『かたつむり』二六〇頁など)「鶴澤綱造先生」とあり、この世代前後の太夫、三味線のかなりの人たちが綱造師匠と呼ばず、綱造先生と呼んでいた。
(7)  以下倉田喜弘氏の御名前が、たびたび出て恐縮している。倉田氏には約四十年来、学恩を蒙り、今後も学恩に浴し続ける。本稿に対し倉田氏は、一笑に付されるか、海容せられるかで、怒られることはないであろう。
(8)  この時期、三味線は、六世鶴澤寛治と二世野澤喜左衛門が二巨頭であった。
(9)  前期は「三つ和会」。三和会に統一した。
(10)  「若い」といっても、明治四十五年生、昭和三十三年に四十六歳。
(11)  『浄瑠璃雑誌』四百二十二号所収の東京新聞、昭和十八年七月東京新橋演舞場劇評。
(12)  権藤芳一・飯島満「武智鉄二関係 三誌総目次」(『歌舞伎 研究と批評』26)解題参照。
(13)  斉藤拳三氏から筆者への昭和四十五年二月二十九日付け書簡から引用する。「太棹は安藤鶴夫が五円の月給で編集して居た時代で無署名のものは彼です。金王丸は田中煙亭氏です。」
(14)  安藤鶴夫『文楽 芸と人』に収録。同書の解説、須貝正義「安藤鶴夫と「文楽」」も参照。
(15)  昭和四十年から、筆者も『演劇界』に劇評を執筆する。
(16)  日置教雄氏談。