太夫修業の今昔

(2005年産経新聞連載9回目(最終回) 12/19web掲載)
英旅日記に早うから掲載予告が出とりましたのに、遅うなりまして、どうも申し訳ありません(Webマスター)



 『ホホォ、その子細といっぱ、頼朝、義経、御仲不和とならせたまい。義経公は作り山伏となって…』。お馴染みの『勧進帳』。安宅の関に辿りついた弁慶一行に、下役人が、関を通すまいとして投げ掛ける言葉である。

 私は三十七年前、東京国立劇場の初舞台でこの番卒の役をつとめたのだが、その折、先代の竹本綱大夫師匠にお稽古していただいた。せいぜい三十秒くらいのせりふだが、わりと激しく声高に語らなければならないので、一回語るだけでもフラフラになる。そのせりふの稽古を毎日、十回ほど繰り返した。
 途中で声が嗄れ、息がカスカスするだけの状態になった。一週間程すると、日常の声もでなくなったのだが、ある日突然、得も言われぬ開放された大声が出たのだ。
 その時、綱大夫師匠は『よっしゃ、お前は太夫になれるわ』と仰ってくださった。そのひとことが、太夫としての私の今日までの支えとなっている。但し、その大音声もその日限りのことで、それ以後、義太夫らしい声を形成するのに、ずいぶん時を要している。

 考えてみれば、太夫は喉一本のしごとである。
 三味線とか人形みたいな道具はない。喉に道具を自力でこしらえるより他ないのだ。時間をかけて喉を作ったあとには、その道具を操作訓練する為の気の遠くなる程の難儀な修業が待ち受けている。
 ただ、今や義務教育を受けることはもちろん、大学を出てから修業を始めるのが普通である。それも大阪以外の土地で、文楽とは縁もゆかりもない環境で生まれ育った青年達がほとんどだ。アタマが一番やわらかい年代の時に、修業一筋でいけた昔にくらべたら、十年以上の遅れだろうし、喉に道具を作らなければならない太夫にとってはなおさらの話だ。そのブランクとハンディをどう乗り越えるか、今は今で厳しい『時』のような気もする。

   しかし、どんな時代にせよ、甘えは許されない。時代を超越したクレイジーな努力というものがなければ、芸の向上は覚束ない。これは文楽の未来に向っての大きな課題だ。
 昔気質の大師匠連の教えを乞うた最後の世代として、せめて弟子達に、先代綱大夫師匠や越路師匠の教えの片鱗だけでも伝えていきたいと思っている。

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