3月10日、早稲田大学・演劇研究センター主催で、英さんらが「復曲」する「酒呑童子枕言葉」について、同大教授の内山美樹子氏より解説文が寄せられましたので掲載致します。読者の皆様も、復曲の現場の舞台にお出で下さり、応援してくださいますよう、英さんも願っております


「酒呑童子枕言葉」(しゅてんどうじまくらことば)解説

内山美樹子

 近松門左衛門作「酒呑童子枕言葉」の初代竹本義太夫(筑後掾)による竹本座上演は、宝永6(1709)年と推定される。翌宝永7年には名古屋でも上演され、人気曲であったが、享保16(1731)年、初代豊竹若太夫(越前少掾)による豊竹座上演以後、人形浄瑠璃における上演記録は、近代まで見当らぬようである。

 ところがこの「酒呑童子枕言葉」の四段目と五段目には、古い朱(三味線譜)が複数伝わっている。朱入り本の代表的なものは、大阪市立中央図書館に人形浄瑠璃因協会から寄託されている三世鶴澤清六文庫本である。二世豊竹古靱太夫(山城少掾)を育てた名人三世鶴澤清六(大正11年没)の書写本で、清六は見返しに「元祖松屋 鶴澤清七師章」と注記している。松屋(鶴澤)清七は、安永期(1772〜81)に朱を発明した人物として著名である。この注記は、18世紀前期に上演の途絶えた「酒呑童子枕言葉」の四、五段目が、何らかの形で記憶伝承されていたのを、18世紀後期から19世紀前期の時点で、松屋清七(ないしその周辺)が整理して朱に書き留めたもの、と解すべきであろうか。

 「酒呑童子枕言葉」四、五段目は、昭和36(1961)年11月(24日〜29日)「芸術祭 文楽人形浄瑠璃 因会三和会 合同公演」(東京・新橋演舞場)において、230年ぶりに人形浄瑠璃として復活上演された。文楽協会発足の前々年、国立劇場開場の5年前のことである。当時、文楽をめぐる状況は至って厳しいものであったにもかかわらず、この芸術祭公演は画期的な近松特集で、特に「酒呑童子枕言葉」には―朱が伝わる名作とはいえ、一般的知名度は高くない作品であることを承知の上で―最高の布陣をもって臨んだ。「鬼」のイメージを鮮やかに転換させた二世桐竹紋十郎の酒呑童子の存在感、十世豊竹若大夫の豪放な、しかも技巧に富む語り口。若大夫は73歳の高齢で、目が不自由なため、三味線の野澤勝太郎からはじめて聴くこの曲を、無本で覚えたのである。

 わずか6日間であったが、意欲的な公演は東京の新聞劇評で高い評価を受け、当時早稲田大学4年生であった筆者は、この時の感銘を、その後の教師生活の中で甦らせ、「酒呑童子枕言葉」を学部、大学院の教材として幾度か取り上げてきた。

 だが東京で6日間上演された「酒呑童子枕言葉」の情報は、大阪には(新幹線開通以前でもあり)あまり行きわたらなかったらしい。国立劇場が近松物の復活を推進する際も、「酒呑童子枕言葉」は取り上げられなかった。


 豊竹英大夫師は、祖父十世豊竹若大夫の「酒呑童子枕言葉 鬼が城対面の段」がNHKテレビで放映された際の録音を聴き、竹本義太夫、初代豊竹若太夫、そして祖父十世豊竹若大夫が語ったこの曲を、自らの手で現代に甦らせたいと考え、鶴澤清友師と共に復曲に取り組んだ。昭和36年の復活底本とみられる清六の朱入り本には、三の君のくだりや童子の言葉などにカットがある(演劇博物館豊澤和孝文庫の鶴澤清三郎本もほぼ同様)。朱入り本は尊重すべきであるが、簡潔にまとめるために、近松文芸の精髄まで切り落してしまっては、意味がない。英大夫・清友両師も近松の主題と曲趣が聴衆に十分伝わる形の復曲にしたいと言われ、COE古典演劇研究(人形浄瑠璃文楽)コースとして、意を強うした。「覚めて悔やむに」から「弔ふでたべ客僧と」まで、及び段切りの「虎の尾を踏み」以下は、参考となる朱が見つからなかったので、清友師の補曲による復活である。

 「酒呑童子枕言葉」四段目の作品内容については、「物語り」(あらすじ)と合わせて奏演台本をお読みいただきたい。この「物語り」は、正確な口語訳を含む筋書き、ではなく、本作にはじめて接する方に、一つの読み方を提示するものである。

 今回の復曲奏演は、「鬼が城対面の段」のみであるが、四段目前半の道行「頼光山入」「衣洗い」も景事の名曲である。文楽公演で、「酒呑童子枕言葉」四、五段目の復活上演が実現する日を待ち望んでいる。

「酒呑童子枕言葉」公演案内へ