まる猫の   

2005年11月13日


10.30 白鷹禄水苑 酒都で語る素浄瑠璃
    大阪キリ短 11.1「ゴスペル・イン・文楽」を観て



 文楽といえば、どういうわけか私の中では年末から八月公演を一つの周期として考え ていて、11月になると今年も文楽シーズンが始まったなという感覚があります。

■西宮の文化に生きて
 その第一弾が豊竹英大夫・鶴澤清友の新口村というのは、このシーズンの英大夫の活躍を 占う上でも非常に楽しみにしていた公演です。
 しかも今回は西宮の造り酒屋が床となるわけですから、浄瑠璃だけでなく、散策やお酒など、楽しい要素が一杯です。
 久しぶりにこの街を訪れて驚きました。阪神大震災で少なからぬ被害を受けた西宮の酒蔵 ですが、震災からの復興により再開発がすすみ街並みが綺麗になっただけでなく、地 元文化を再構築しようという意気込みが街から感じられます。
 震災ですら切っ掛けと してより良い街づくりを目指す志の高さは、さすがはこの地域を支えてきた歴史ある 酒蔵、より良いお酒を楽しんでもらいたいと代々酒造メーカーとしての努力を重ねて きただけあると感じさせられます。
 このように地域が時間をかけて育ててきた精神は 形のある建築物などとは違い、一度見失ってしまうと簡単に消えてしまいそれすらも 気づかないもので、震災はそのような精神が失われる切っ掛けでもあったのでしょう が、見事に再構築され次の世代へと伝えられているように見受けました。

■震災で古い酒蔵は失われたが
 なるほど、白鷹禄水苑の建物は新しくて綺麗、古い酒蔵の趣は失われてしまったのか もしれませんが、大事なのは建物ではなく人の心であり、建物が残ったところで、失 われた心を取り戻すことはできません。
 この地域は震災で多くのものを失いました が、人の心は荒廃せず、復興により新たな人との繋がりが出来あがったことは、地域 の方々の努力に負うところが大きく、この地域では白鷹のような酒造メーカーが中心 となったことを思わせ、何かと難しい今の世の中を生きている私たちに勇気と知恵を 与えてくれます。
 いくら古い建物が残っても、人の心が変われば、物が残ったという だけのことであるのと同様、いくら良い器であっても注ぐ酒が良くなければ、酒宴は 盛り上がりません。
 さしずめ禄水苑という立派な器には、美味しいお酒と料理、そし て洗練された芸能、と言うわけで、ここに英大夫を呼ぶというのは中々良いセンス。 逆に言いますと、英大夫が語るに不足ない会場であるとも言えます。

■会場ごとのもてなしが楽しみな素浄瑠璃
 古い酒蔵を復元したという建物は酒蔵らしい立派な造り。
 大坂の町家とは違い、たく さんの物や人が出入り出来るように通路や間口も大きくとられ、広くて高い天井から は出荷や仕込みの最盛期に高く積まれた材料や品物を想像でき、いかにも昔の工場と いった趣があり、当時の活気を思わせます。
 いかにも酒蔵らしい立派な提灯が室内を 照らし、金屏風と緋毛氈で立派な床が拵えられ、燭台には床を照らす本物の蝋燭、脇 にはさりげなく季節を感じさせる草花が花瓶に活けられています。
 演奏が始まるまで には振る舞い酒もあり、白鷹の美味しいお酒も楽しめませてもらいました。
 英大夫を 追いかけて色々な会場で素浄瑠璃を楽しんできましたが、会場ごとに床や客のもてな し方も違い、このようなところにも大夫と三味線が足を運ぶだけの素浄瑠璃の会なら ではの楽しみがあると思います。
 河内厚郎先生、「妙心寺」で声を痛めた英大夫から 挨拶があり、越路大夫師匠との思い出なども語られ、会場の雰囲気も盛り上がってき ます。

■最初の一撥がたまらない
 浄瑠璃を聴く身としては、三味線の最初の一撥というのは、何ともたまらないものが あります。
 これから大夫の語りが始まるのだという期待感に加え、日常では決して耳 にすることのない太棹の何とも言えない音色。清友さんの三味線が非日常へ誘ってく れます。
 英大夫さんの第一声は確かに苦しそうに聴こえましたが、語りが進んでいく うちに気にならなくなってきましたし、また、全体を通して聴くと、声も良く出てい るようにも思え、聴きづらさということはそれほど感じませんでした。
 とりわけ孫右 衛門の心情というのは丁寧に語られておりました。
 義理立てや筋を通そうとしながら も、親子の情にほだされて、少しずつ理屈をねじ曲げていき、挙げ句の果てには追手 から逃してやるというのは、現在の我々からするといい加減にも見えるかもしれませ んが、親子の情というのは理屈や論理に割り切れないものであって、こういうことば で表せない「情」というものをことばで語って聴かすところに浄瑠璃の面白さがある と思います。
 感動的な親子の対面、悲劇的な状況での対面であるはずですから、聴い ている方の涙を誘いますが、飛びでてこようとする息子を制し、「ああ、まだでな い、まだでない」という孫右衛門の様子などは、面白くて笑える場面でもあります。
 親からすれば、子供などはいくつになっても無分別で危なっかしいところがあるよう に見えるのでしょうか。忠兵衛ほどの立派な男がお爺さんのような孫右衛門に子供の ように抱きつこうという様子は「寺子屋の段」のよだれくりが自分より小さな父に背 負ってもらう場面にも似ています。
 「ああ、まだでない、まだでない」ということば は、そのような見た目の滑稽さを先に描いておくことで、無理なく感動の対面へ筋を 運べますし、また、そのような無分別さが封印切りという事件の引き金にもなってい るようにも思えます。
 英大夫さんの新口村を聴いていますと、大の男が抱きあうとい う滑稽さも悲しさも良く描かれており、清友さんの三味線と相まって陰影の濃い素晴 らしい物語になっていたと思います。

■声の「悪調子」も飛躍のきっかけへと
 今回の新口村は以前に今井町で聴かせていただいたときよりも、濃密な人間ドラマに 仕上がっているように思えました。
 どうしてそう感じるかは、私の記憶が頼りないた めか、あるいは英大夫さんと清友さんが着実に努力をつみかさねてきた成果であるか は分かりません。
 英大夫さんご本人が仰っているように「声に頼らない」ということ が良かったのかどうか、浄瑠璃の技術的な面は尚更私には分かりかねる部分が多いの ですが、私が今回の新口村を良かったと感じたことは確かです。
 また、懸念された声 に関しましても、普段から英大夫を聴いている私には、お声の調子というのは、何と なく分かるものなのですが、今回一緒に来てもらった友人によれば、「目をつぶれば 情景が頭の中に浮かんで来て、浄瑠璃とは中々良いものだと思った。
 物語も分かりや すく語りも分かりやすかったが、一つだけ分からないことがある。あの大夫さんの声 のどのあたりが調子悪かったのか?良く声が通ってたやないか」とのこと。
 案ずるよ り生むが易し、とは言いますが、普通に聴いている方にとって、日々命懸けで精進し ている芸人の技というは、ご本人が想像している以上に力のある素晴らしいものなの でしょう。
 しかしながら、ご本人の重圧や不安は一方でなく、これまた、普通に聴い ているだけの素人には計り知れないものでもあります。
 口で言う以上に、なかなか大 変なことではあると思われますが、苦しいときや調子の悪いときの工夫などから、何 かを掴み取って、大夫として飛躍する切っ掛けにしてもらえればと思います。そうい う意味でも、震災から復興してきた街に相応しい良い語りであったと思います。

■「ゴスペル文楽」が街へやって来た!
 それから二日後。11月1日。
 大阪キリスト教短大における「ゴスペル・イン・文楽」 の公演。
 キリスト教短大は自宅から近く、今回は「ゴスペル・イン・文楽」の公演で あるというだけでなく、地元に文楽がやってくるという思いもよらない喜びで、母と 二人で出かけることにしました。
 いつも文楽劇場へは自転車で通うくらいのもので、 黒門市場あたりまでは近所という意識はあったのですが、今回は本当の隣町で犬の散 歩に出かけるくらいの場所であります。
 わが町に文楽がやってくるということは初め てであるだけでなく、大阪キリスト教短大創立百周年を記念しての公演ということ で、地元としてもそのような歴史ある学校の様子を中から見る事ができる良い機会で もあるし、それが「ゴスペル・イン・文楽」なわけですから、朝早くからの公演で非 常に行きにくい時間と日にちではあったのですが、これはもう行かないわけにはいか ず、前々から時間を確保して楽しみに母と二人で会場を訪れました。

■二階席の醍醐味も
 会場となった講堂は既に満席で二階の立ち見しかない状態でしたが、私と母はどうい うわけか、昔から二階席が好きで、文楽劇場でも床と対角になる幕見席を好んでとる くらいですから、今回も床と対角の二階から立って見渡せる好位置に場所をとりまし た。
 文楽を上から観るというのはあまりないことで、私の経験では南座公演くらいの ものでしょうか。
 地方巡業や自主公演などではあることなのかもしれませんが、いず れにしましても、上から観るというのはあまりないわけですから、私としては二階席 があるのなら是非二階席で、と考えてましたので、なかなか良い条件で楽しむことが 出来ました。
 あまり目が良くありませんので、細かいところは分からないのですが、 全体の動きを一目で把握できるというのは、何度も繰り返して楽しむ上で、大変有り 難いことでもあります。
 大学の大講堂ではありますが、舞台や照明も本格的に組ま れ、これからどういう事が起こるのか楽しみになりますが、会場全体を見渡せる事も 二階席の良さであります。

■人形の解説も盛り上がり
 さて、学長先生の挨拶の後、いつものように文楽入門として、希大夫さんの解説。短 時間に要点をしっかりまとめた良い解説であったと思います。
 続いて人形の解説。人 形の解説はどの会場でも盛り上がりますが、ここでも学生さんを舞台にあげて実演。 段取りが決まったあれだけの事でも中々難しいわけですから、普段の舞台というのは かなり大変であろうと感じます。
 毎回の事ですが、会場から笑いや驚きの声が起こり ます。そして、いよいよ「ゴスペル・イン・文楽」が始まります。

■チャペルの十字架が生き 大きな拍手に安堵
 白鷹禄水苑から二日後ですから、声の調子を心配いたしましたが、マクラの部分から 二階席の端にも良く通り、全く問題ないように思えます。
 あれだけの大きな会場の端 で聴いていたわけですが、清友さんと団吾さんのの三味線も良く通り床の熱演を近く に感じることができました。
 昨年、神戸カトリック教会で拝見した時と大筋は同じよ うですが、衣装などに工夫があり、公演を重ねるたびに進化しています。
 幕間に入る 講談も良い間合いで楽しませてくれますし、船の上でのエピソードも良くできていて 面白く飽きさせません。
 キリストが迫害され処刑される場面は何度聴いても胸に迫る ものがあり、ユダの人間的な弱さに自分を引き合わせたりして、物語の世界に引き込 まれていきます。
 物語の最後は神の福音を告げる明るい場面ですが、講堂の十字架が 重要な演出にも重要な役割を果たしており、このあたりは毎回感心させられます。
 終演後は会場は大きな拍手で満たされ、私たちも満足して帰宅の途についたのでした。

■古浄瑠璃の源流に帰った如し?
 家に帰り、母と今回の公演について話しが弾みました。子供の頃から、一緒に文楽や 落語などを楽しんだ後には色々と話しをするのですが、いつも以上に話しが盛り上が り終演後も楽しい思いをしました。
 初めて「ゴスペル・イン・文楽」を観た母による と、語りや演出自体も面白かったのですが、何よりもこのような会場で演じられる雰 囲気というものを楽しめたということ。
 当麻寺などで今でも行われているそうです が、曼陀羅を前にしてお坊さんが良い節回しで絵解きしながら仏法を説く、あれと同 じ趣があり、あのような会場であのような演目が出ること自体に面白さを感じる、と のこと。
 そもそも古浄瑠璃の源流である説教節の「かるかや」「さんせう太夫」など も、お寺でお坊さんが民衆に語っていたわけだから、英大夫がキリスト教の教会で 「ゴスペル・イン・文楽」を聖書の物語を分かりやすく語るというのは、こうして実 際に会場で聴いてみるとごくごく自然なことに思えるとのこと。
 かつての民衆がこの ような形で近所のお寺などの宗教施設を人寄り場所として集まり、そこを中心に芸能 や商業が盛んになっていく中世の活気のようなものを肌で感じることが出来て大変楽 しかったと、話しが弾みました。
 理屈の上では理解していたことですが、肌で感じる ことができるのは、やはり足を運んでみたからであり、芸能の力でもあると感じま す。
 母にしても私にしてもクリスチャンではありませんが、教会や講堂の十字架が あってこその「ゴスペル・イン・文楽」であり、クリスチャンが語ってこその「ゴス ペル・イン・文楽」であると意見が一致しました。

■寛容の精神を伝えて欲しい
 また、英大夫がクリスチャンでありながら通常の浄瑠璃を語るというのは、キリスト 教の教理に反すると思われる内容を多く語ることになるため、一見、矛盾して奇妙に も思えるのですが、
 こうして「ゴスペル・イン・文楽」を観てみると、このような日 本人の宗教感覚がキリスト教の寛容さに通じているように思えます。
 と言うのも、日 本人はとかく無宗教である、日本人自らがよく言いますが、実際はこれほど信心深い 国民はないのではないかと思います。
 無宗教であれば、これほどの寺社仏閣が残るは ずありませんし、また、七五三はお宮、結婚は教会、死んだらお寺、と何かと宗教施 設を利用することは考えにくいわけです。
 この点を指して、節操がなく、確固たる宗 教を持たないが故に無宗教である、とするのかもしれませんが、人知を超越したとこ ろに力を感じているか、あるいはそこまで行かなくてもそれを否定できない感覚が日 本人なら少なからずあり、これは無宗教と言うよりはむしろ宗教感覚が身についてい るのではないかと思います。
 宗教とは心の問題であり、儀式以前の問題であるわけだ から、儀式次第に一貫性がないからといって、無宗教であるというのは乱暴すぎるの ではないかと思うのです。
 同様に英大夫さんの「ゴスペル・イン・文楽」を聴いてい ますと、クリスチャンでありながら「ゴスペル・イン・文楽」を語る一方で「いろは 送り」を語るというのは、日本人の宗教感覚は節操がないというよりは寛容であると いうのが本当のところのような気がしています。
 様々な民族や宗教が対立して、戦争 を引き起こすというのは、世界史上続けられてきたことではありますが、日本人の宗 教に対する寛容さはこれらの問題に終止符を打つ新機軸になるのではないかという気 もします。
 英大夫さんの「ゴスペル・イン・文楽」には神と神の子であるキリストの 寛容さが描かれていますが、これを表現する英大夫さんと浄瑠璃が表現する寛容さは 相通ずるものがあります。
 今後もこの「ゴスペル・イン・文楽」が多く上演され、演 目として成長していくと同時に、より多くの人に楽しんでもらい、現代に失われがち な「寛容」の大切さを伝えて行って欲しいと思います。

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カウント数(06/05/06 12:55よりカウント)