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 十世豊竹若大夫は、故三世竹本春子大夫(昭和四十四年没)、故五世豊竹呂大夫(二〇〇〇年没)、現八世豊竹島大夫の師(呂大夫、島大夫は若大夫没後、三世春子大夫、故四世越路大夫門下)、現三世豊竹英大夫の祖父、現九世竹本綱大夫の大おじである。
 国立劇場が開場した一九六六年十一月に、最後の舞台を勤めた豊竹若大夫を、直接聴き、記憶している人は、文楽の観客の中でも、いまや少数派かも知れない。近年NHKテレビや伝統文化放送で、故人の舞台を放映する機会があり、若大夫も取り上げられているが、原則一回限りの放送は、誰でも聴きうるものではないので、まずは現在市販されているカセットテープ等の奏演録音を例にとりたい。といっても、四世越路大夫、八世綱大夫、山城少掾などとは違い、市販中の若大夫の奏演録音で筆者が知るのはNHKカセット「文楽〜よみがえる至芸 十代豊竹若大夫・野澤勝太郎 摂州合邦辻「合邦内の段」」のみである。そのカセットテープから、高木浩志氏の簡にして要を得た解説を引用したい。
ここに収められた演奏は「合邦内【がっぽううち】の段」後半で、娘玉手御前の不義に立腹した父親合邦が、娘を刺すくだり。玉手御前の意外な告白で、お家安泰に至るのだが、壮絶な場面である。若大夫の語り口は、浅香姫の可憐さや入平の口捌","くちさば">きや、俊徳丸の無念さの表現もさることながら、必死の玉手御前や娘を刺す合邦となると、これはもう義太夫節云々というより、人間の悲痛な心の叫びとでも言うか、全身でぶつかってくる感じで、知らず知らず引き込まれてしまう。これがこの人の真骨頂。義太夫節の主流が、理知的で技巧的になってきた時代にあって、古風で泥臭く、登場人物に自らの血を通わせ、豪快に客を圧倒した。「合邦」もその例に漏れず、迫力で最後まで押し通す。「熊谷陣屋」でも「志渡寺【しどうじ】」でも「袖萩祭文【そではぎさいもん】」でもそうであった。

本稿執筆中の二〇〇三年二月、東京国立劇場文楽公演で「合邦」が上演され、筆者も観劇した。二月十九日<注(5)>の住大夫、文雀らによる後半は、現在の文楽の一つの水準、好演の部に入れ得るものと思うが、改めて、若大夫・勝太郎以後に、観客を興奮の渦に巻き込む「合邦」があるとすれば、それは昭和四十八年七月大阪、九月東京の四世竹本津大夫、六世鶴澤寛治の奏演だけである、と認識している。
 若大夫・勝太郎のカセットテープは、一九九九年十月十八日に、昭和三十八年九月放映として再放映されたものと同じ音源であろうか。NHKはなぜ録音、放映年月日を明記しないのだろう。
 ともあれ、若大夫の「合邦」後半が見事であればあるほど、前半も聴きたいのが人情であるが、これは特殊なコレクションを別とすれば、SPレコードの全曲録音によるほかない。十世豊竹若太夫・四世鶴澤綱造「摂州合邦辻」ニッポンマアキュリィレコード十一枚。録音年次は若太夫が「綱造先生」<注(6)>を相三味線に迎えた昭和二十五年から、四世鶴澤綱造が没する昭和三十二年の間。このSPレコード「合邦」では、若大夫は後半より前半がよい。綱造に引き締められて、慎重に明確に語り、前半に求められる堅固さが具わる。後半になると、綱造に引き回され、ひたすら声を張り上げる一本調子で、聴きとりにくいところも出てくる。名手綱造の剛腕はよくわかるが、全体としては落ち着きの乏しい「合邦」で、名品とは言い難い。但しこの録音がたまたまそうであるまでで、若大夫・綱造による「合邦」の佳き舞台も、もちろんあった(一五八頁参照)。ともあれ、現在、若大夫の「合邦」全体を聴くには、若太夫・綱造のマアキュリィレコードを所蔵している機関に行き、テープに移したものがあればそれで前半を聴き、続けて若大夫・勝太郎のNHKカセットで後半を聴く、という手順を踏むのが一番よいことになる。
 若大夫は六十歳を過ぎてから、名手綱造に鍛えられて大成の域に達した。それがさらに円熟の境地に至るのは、昭和三十二年末に綱造が没し、若い勝太郎の三味線で若大夫の個性が前面に押し出されるようになった時期である、と筆者は考える。二世古靱太夫(山城少掾)の大成、円熟が、名人三世清六時代でなく、四世清六時代であることと、多少共通点を有するであろう。
 しかし倉田喜弘氏は、少なくとも「十世豊竹若大夫床年譜」(以下「年譜」と略称することもある)作成のためにお話をうかがった時は、綱造没後の若太夫は我儘ぶしだ、対する勝太郎も綱造に比べて切っ先が柔かい、と言われた<注(7)>。この評価には正しい面もあるだろう。たとえば三味線について、レコードやテープを、もし三味線部分だけ聴き比べることができるならば、それはやはり勝太郎より綱造が上であろう。そして若大夫であるが、まず若大夫自身の年令が、昭和三十三年に七十歳、当時としてはたいへんな高齢である。どれほど叩きこんだ芸があっても、特に太夫の場合、記憶力を含む体力の衰えが何らかの形で出てくるのは避け難い。高齢の演者はそれを補填すべく、さまざまの方法を講ずる。が若大夫は「五十二歳のとき、ちょっとした事故がもとで目が不自由になり、本は読めません。」(昭和37・3・28 朝日)、文字で記憶を補うことができない。不安材料を一杯抱えた若大夫が、綱造の剛腕のタクトから一寸も外れまいとふんばってきたのが、六十代の終りまでとすれば、昭和三十三年七十歳以後の舞台に、緊張が解けて少し我儘になった時もあるかも知れない。高齢の演者は、十日なり二十日なりの公演中、体調が優れず弱点が出てしまう日もあるだろう。
 だがそれらによる減点を多少認めるとしても、筆者には、晩年の若大夫は、基本的に充実し、輝いてみえた。NHKカセット昭和三十八年の「合邦」が、そのことをきわめて雄弁に物語っている、と思う。
「若大夫の浄瑠璃で、アタマが強くて、あとがすぼんだり、大声でつぱってからハアと息をついたりする欠点は、晩年は心臓肥大症によるものです。ウーウーという口癖があって、綱造師匠の死後はそれである程度楽をしていたようだが、しかし、ここ一番というところは、何といっても見事でした。若大夫の浄瑠璃を邪道のように言う人もありますが、そんなことはありません。音遣いなどが滑らかでなく、ぎゅっと突込んだり、急に上ったり下ったりすることがあるのも、強い線を一本引く墨絵と同じことで、結局浄瑠璃としてよく語れていて、三味線がちゃんと弾けるのですから、あれはあれで正統です。自分でも承知の上で、棒に語っていたのですから。」(二世野澤喜左衛門談)
「欠点は歯が悪かったために、開合が不明瞭だったことです。しかし、声は腹から出ていますし、音遣いも立派に出来ていられました。声にまかせて引っ張っていると非難する人がありますが、そんなことはなく、義太夫節としての運びはちゃんとついていました。」(八世竹本綱大夫談)

二世野澤喜左衛門師、八世竹本綱大夫師は、話を聴いた昭和四十二、三年の時点における三味線と太夫の最高権威である<注(8)>。追悼的な意味合いを持つ著述に寄せる談話を、額面どおりに受け取ることはできないという意見もあるかも知れないが、むしろ最高権威は、芸に対し無責任な発言はしない、と考えるべきであろう。
 要は「ある程度楽をしていた」ところがあることで決定的に減点するか、「ここ一番というところは、何といっても見事」で「あれはあれで正統」というプラス志向の評価をするか、これはいわば立場の違いで、たとえ論争をしても、平行線を辿らざるを得ないのではないか。
 綱造没後の若大夫は我儘ぶし、と言われる倉田氏が、それでは綱造生前の若大夫を高く評価しておられたか、恐らく否であろう。
 本蔵の大笑ひから「いやはや、そりゃ侍の言ふ事さ……」にかけての豪快な語り口、「唐と日本にたんだ二人、其の一人を親にもつ」この辺から綱造の三味線は冴えて若太夫を弾きまくる。……若太夫も名実ともに三つ和会の紋下の貫禄を見せてゐるが「仕様をこゝに見せ申さん」のあと、例の悪い癖のしゃくる様な語り方で文句が不明瞭何といってゐるのかわからない。(幕間27・2 吉永孝雄)
 若大夫は冒頭こそいつもの癖で晦渋だが、お石との詰開きになってからは咽も開けて来て、娘の結婚を成立させようとする戸無瀬の、懸命でありながら慎み深くお石に応酬してゆく間に、義理の親の一途になった哀れみが滲み出たのを採る。(演劇界32・10大西重孝)

どちらも九段目「山科閑居」の若大夫評、前者が昭和二十七年一月大阪三越劇場、三味線は綱造、後者は三十二年九月大阪道頓堀文楽座初の両派合同公演。この九月から三味線は勝太郎。綱造は十二月に没する。文中の若大夫の「不明瞭」「いつもの癖で晦渋」は、たとえばNHKカセット「合邦」を聴く限りでは、ぴんと来ないが、戦前から度々言われてきた若大夫の欠点で、昭和三十年代前期までの若大夫を知る者には、よく通じる言葉であった。


続く