●「十世豊竹若大夫、晩年の奏演をめぐって」を掲載します
 このページは、英さんが2004年1月14日の旅日記で触れていた、内山美樹子・早稲田大学文学部教授の論文「十世豊竹若大夫、晩年の奏演をめぐって」を掲載します。今年4月で、若大夫没後37年です。同教授と早稲田大学演劇博物館の了承を得て、「演劇研究センター紀要」I(早稲田大学21世紀プログラム<演劇の総合的研究と演劇学の確立>、2003年3月発行)から、抜粋(全部で七章のうち、一から三章までとその注のみ)を掲載する次第です。感謝(webマスター)




十世豊竹若大夫、晩年の奏演をめぐって


内山美樹子

(一)

 大正六年初版の秋山木芳(清)著『義太夫大鑑』(満州日日新聞社刊<注(1)>)は、袋綴、上下二巻、上巻本文七二二頁、下巻本文二九三頁、併わせて千頁を越える大著である。上巻は題して「浄瑠璃と操り芝居」、下巻は「浄瑠璃としての義太夫節の理論」。著者も、想定される読者も、いわゆる学者や文科系学生、知識層ではなく、浄瑠璃愛好家、素人浄瑠璃稽古連中であったため、研究史的に傍系の書とみなされ、論文等で取り上げられることも多くはなかった。しかし、杉山其日庵の序「歴史系統は申に及ばず、アラユル方面の調査を遂げた、義太夫節のヱンサイクロペヂアーである。」は過褒としても、大正前期現在に存在する義太夫節浄瑠璃に立脚して、浄瑠璃の歴史とともに実技の方法論を模索した意義は十分評価さるべきであり、特に下巻に収める複数の太夫の芸談や、聴き巧者達からの伝聞芸話等は、近代の浄瑠璃史を考察する際の基本的資料の一つとなるものである。
 下巻「第三章 語り方の理論」には三世竹本越路太夫、三世竹本津太夫の芸談とともに二世豊竹呂太夫の詳しい芸談が収められている。文楽協会編、高木浩志編集になる『義太夫年表 大正篇』によれば二世呂太夫は『義太夫大鑑』刊行時に最も近いところで、大正五年一月御霊文楽座「菅原伝授手習鑑」の「喧嘩の段」、四年十月同座の「仮名手本忠臣蔵」では「桃井邸の段」奥を語っている。この「桃井邸」の口は初代豊竹英太夫であった。因みに「仮名手本忠臣蔵」の主な太夫配役は「扇ヶ谷」二世古靭太夫、「勘平住家」三世伊達(六世土佐)太夫、「山科閑居」が紋下三世越路太夫、「祗園一力」の由良之介が三世津太夫である。『義太夫大鑑』で詳しい芸談を載せる三人(短い芸談、芸話は他にも多い)のうち、二世呂太夫は、文楽座での役場は他の二人よりよほど低いが、先輩で故老格であった。
 さて二世呂太夫は『義太夫大鑑』芸談の中で門弟英太夫について

私の門人に「英【はなぶさ】」と申す者があります、此れは親からして浄瑠璃が非常に好きで―ところが此「英」が又いたッて悪声で、兎ても成就の見込が無いと云はれた位でしたが、私は辛抱さへすればと請負ひました。果せるかな熱心に研究の結果、今日では声の使い具合も大分上手に成つて来ましたやうな訳で……悪声だと申しても、必ず出来ぬと云ふ限りはありません。

と述べている。二世呂太夫は前記大正五年一月限りで文楽座を退き、その後は大正七年秋に竹豊座に二回の出演が挙げられるのみである。一方、二世呂太夫が名指しで褒めた稽古熱心な門弟初代英太夫は、明治二十一年生、徳島市出身、明治三十六年二世呂太夫に入門、大正九年七世島太夫襲名、昭和七年三世呂太夫を経て、昭和二十五年、豊竹座系の最高の名跡、豊竹若太夫の十世を襲名、昭和三十七年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定された。昭和四十二年没、七十九歳(満七十八歳十一ヶ月)。
 本稿ではこの十世豊竹若大夫<注(2)>の晩年、昭和三十四年頃から昭和四十一年十一月までの、奏演と活動について、とり上げたい。下限の昭和四十一年十一月は、東京国立劇場開場公演で、若大夫は小劇場の文楽(翁)のほか大劇場の歌舞伎(「菅原」道行)にも出演し、それが最後の舞台となった。「晩年」という語の淋しいイメージとは裏腹に、豊竹若大夫にとって、昭和三十年代半ばから四十一年の七十代は、最も充実した時期であった。
 筆者は若大夫の没した二年後、昭和四十四年一月刊の『近松論集』第五集に「十世豊竹若大夫床年譜」を掲載した。「十世豊竹若大夫床年譜」は、まえがき部分に記す如く、多くの方々<注(3)>の御力添えによって、ようやく形をなしたのであるが、なおかつ筆者の知識の乏しさのために、不備な点の多いものとなった。前掲の『義太夫大鑑』所載、二世呂太夫による門弟英太夫評も収められていない。当然行うべき「十世豊竹若大夫床年譜」全体の補訂を措いて、若大夫について稿を為すことへの御叱責は甘受せねばならないが、このたびは晩年のみを扱うことを御許しいただきたい<注(4)>

(二)へ続く