水、いのち、揺らぎ――「舞踏の源流 文楽」
          2005年2月5日 大阪倶楽部
森田美芽


 鮮烈な感覚が五感を襲う。
 言葉が、音楽が、身体が、声が、人形が、色が、それぞれの固有の表現を通して迫ってくる。見えなかったものが見え、届かなかったものが届く。感動という言葉を簡単には使うまいと思う。
 しかしこの日、新たに目覚めさせられた感覚を何としよう。古典を現代に発見し、息吹を吹き込む制作者伴野久美子による新しい企画「古典の新芽シリーズ」第1回は、各界の精鋭を巻き込み、新しい感性の世界を展開する試みとなった。

 第一部は、まず谷川賢作の作曲・ピアノ、由良部正美による舞踏「minimal」。
 谷川俊太郎の詩の魅力の一つは、珠玉のような言葉に溢れる生命感と透徹した悲しみの感覚である。谷川賢作のピアノは、ドビュッシーの「沈める寺」あるいは「葉末を渡る鐘の音」「金色の魚」を思わせる。それは、由良部の舞踏表現においても、とりわけ水に関わる部分が耳に残ったせいかもしれない。
 「おだやかに流れる河/こうべを垂れて見送る木々」あるいは「耳に流れこむ/言葉の/濁流」といったことばが、暖かい、雨上がりのしっとりした空気のような感覚で包み込む音色となり、それを由良部が受けてする舞踏の、細やかで止むことのない動きの中に受肉する。
 由良部自身の言葉でいえば、体の重心を絶えず移動させる動き。それは自らの身体を楽器とする働きであると。事実、音の持つ記憶が身体と重なり、あたりを包みこんで空気となる。
 そのなかで鍛え抜かれた身体は、自らを素材に自在に、しかも深く統御されて動く。
 私が私として生きている言葉の深みのように、表現する者とされるものは一つではない。自らの身体をもって描く者は、自分を客体として世界に投げかけ、再び世界からその意味を受け取る。

   そしてその身体は皮膚を通して外界とつながり、「老いた舌/痒い皮膚/ゆらぐカラダ 口は/水を含んで/なお渇く」と自らが異なる存在であることを嘆く。
 しかし「雲の調べで/木々の/和声で いつかやむ/心臓の/韻律 だが歌は続く/君を/讃えて川底に/流れる/水の旋律」で、穏やかに自然のリズムと溶け合い、調和していく。身体が詩を語ることは、「言葉の/空しい/求愛」ではないのだと。

 続いて、桐竹勘十郎、勘弥、紋吉により、「日高川入相花王・渡し場の段」の人形遣いの動きを人形なしで見せる。
 人形のない人形遣いの、目的を失ったように見える肉体が、見えない胴串を握り、首を遣う。足のない人形の足音が力強く響く。重心を失った肉体は解体せず、習い覚えた動きの中に自分を見出す。
 普段は人形の蔭で自らを殺す肉体そのものに触れて、その洗練と自在さに驚きを覚えた。義太夫は英大夫、清友。

 その最後とかぶさるように再び舞台に登場する由良部。
 白塗りの、ほとんど全身をさらして、身体そのもので表現するコトバは、土方巽の「病める舞姫」。
 英大夫は以前、建畠晢の現代詩を義太夫節で語るという試みをしたが、そのとき彼は、詩の物語を文楽の登場人物に当てはめて語りを作った。
 その手法が生かされ、難解な詩は対話の物語となり、清友は余情を残す三味線で支えた。
 言葉で語ろうとして語りえない、身体でしか語れない秘密。しかし外界はそれに無関心に、あるいは興味本位に過ぎていく。
 死とは身体の滅びるところ。私の存在がすべて無になる時。由良部の身体は、極限までその動きを支え、もはや言葉の届かない、身体そのものによってしか伝えられない一つの感覚をわれわれに共有させた。
 背中と太腿と肩、その純粋な筋肉の律動。大地から離れようとし、また近づく足裏。男から女へ、寸感的に性を越えていく動き、一人が二人に、私があなたに、そこに一つの共通の基盤のようなものを感じさせつつ、彼は彼としてそこにいる。こんな身体表現があるのだと、目もくらむ思いで見つめていた。

 休憩ののちのトークタイムは、喜多流シテ方の大島衣恵。
 言葉、語り、身体表現のすべてを総合する能楽師で、しかも若い女性を抜擢した伴野氏の見識は見事。
 先ほどの由良部の言葉も、英大夫の言も、彼女の司会で引き出された。こうしたトークにありがちな単なる内輪話や楽屋落ちで終わらせなかった彼女の功績を評価したい。

 最後に文楽「日高川」を人形入りで。勘十郎は無論、左も足も生き生きと動く。そしてこの短い場でも、勘十郎の実力は冴える。人形を知り尽くし、その表現を追及しようとする彼ならではの迫力と動き。清姫の両肩を見せ、片袖を脱ぐ。一枚板でしかない人形の身体が見える。しかし彼はその中に、清姫の絶望と思いの全てをこめる。
 川に飛び込み、蛇体に変じる。銀鱗の衣装に変わり、がぶの首できまる。全てのことばを越えて、言葉を集約する動きに変わる、その鮮やかさが人形遣いの身体の言葉である。英大夫の伸びやかな一声で舞台は終わる。今日の力の全てがここに集約される。
 忘れてはいけない。普段なら金屏風を使う床には、鮮やかな伴野氏の背景。そこに、記号となる以前の感性を萌えたたせようとする彼女の意図を感じずにおれなかったことも。

 なんという充実、言葉と身体の極限の格闘であったことか。この舞台を作った全ての人への感謝を惜しまない。
 さらに一言。大阪倶楽部は、都市としての大阪の持つ、格と歴史と趣味の場である。そこでのこうした試みは、大阪という街の過去と未来をつくる試みであり、大阪の文化の新たな一歩として評価されるべきである。
 また、出演者を囲んでの晩餐会の食事を供した花外楼にも、こうした形で大阪の文化の深さと創造の試みを支えてくれたものとここに記したい。