もう一つの意志表示――6月鑑賞教室より
「冥途の飛脚」を観・解く

森田美芽

 近松の人物像は近代的といわれる。だが、それでも現代のわれわれには理解しがたいことが多い。「曽根崎」にしろ「天の網島」にしろ、そこまで追い詰められる義理の論理が現代社会ではかなり崩壊してきている。
 では、「冥土の飛脚」はどこが近代的なのか。

 人間がその生まれた土地、育った風土、何代にも渡る人間関係から切り離され、都市という、金と色と現在という、ある意味できわめて単純明快な関係に移されたときどうなるか。
 その色と金の誘惑は、人をどのように破滅させるのか。
 それを知っていた昔の人は、一方で義理という住民同士のしがらみ、もう一方で厳罰主義という枷をもって縛ろうとした。

 「封印切」の物語には、預かった金の封印を切れば死罪という厳しい前提がある。それは、自分のものでない金を扱うことを商売とする者が、必然的に陥る誘惑の深刻さを物語っている。
 金があればかなわぬことのない一方で、金がなければ人間として扱われない。
 義理も人情もそこには存在する余地がない。金を手にすれば、つかの間でも全能感を味わえる。色里では、金をもてば生活の鬱屈も癒される。かりそめの恋でも楽しむことができる。
 この快楽を知った人間は、もはや「かたぎ」の生活にもどれない。
 この人間の弱さと転落を描いているという点で、確かに「冥土の飛脚」は名作である。

 しかし、それが舞台にかけられたとき、納得できるかどうかは別である。そのためには、技芸員たちは、そうした内容を自分で消化し、納得できる人物像を作り上げなければならない。
 それがなされているかどうかが、この舞台に共感し、感動できるかどうかを分ける。

 パンフレットには、忠兵衛を「超短気な男」と書いてある。
しかし、どんな短気な人間でも、自分の命と引き換えの金をそう簡単に私するものか。それを納得させられるかどうかが、成否の分かれ目である。
 今回の興味は、初役の彼らがその役をどうこなすかだけでなく、彼らが一人の芸術家として、自らの創造の営みをどこまで若い観客たちに提示しうるかの試みでもあったと思う。

 「羽織落とし」を独立させて段書きする。
 上手小幕の暗がりから、吉田簑太郎の遣う忠兵衛の白いかしらが浮かび上がる。身のうちに何かが走った。この忠兵衛は、すでに正気ではない。
 わずかに上を向いた視線、心ここにあらぬ足取り、「魂抜けてとぼとぼうかうか」ではないが、見る者はそれだけで忠兵衛が物狂おしい情念に捉われていることが分かる。
 新町の灯を前に、ふと心づくが、「おいてくりょ・・いてのきょ・・」のためらいも、彼の心をとめるわけではない。犬につまづき、羽織を落とす、恋につかれた忠兵衛。

 「封印切」和生の梅川の登場にはっとする。なりは遊女だが、なんと可憐な、愛らしい娘だろう。愛する忠兵衛のことを案じ、一方で田舎客に請け出されるかと気が気でない。
 かむろの浄瑠璃、廓の恋は誠が嘘になり嘘が誠になる、それも男次第の身の哀れさ。

 八右衛門の登場。私はこの八右衛門が男気ある人物と思っていた。少なくとも「淡路町」では。
 しかし、この場のふるまいは、友情などではない。彼にとってもっとも知られたくない懐具合を公表され、50両の不始末を公にされ、あまつさえ梅川を別の客に請け出させようとする。
 もし本当に忠兵衛を思えば、彼の面目を潰さぬ配慮があったはずだ。
 梅川と失いたくない。ここで忠兵衛の理性は切れ、懐の金を渡そうとする。さらに追い討ちをかける、八右衛門の一言。
 「さだめてどこぞの仕切金」。そう、ここまでいわれては、逆に手を止めればかえって彼の言葉を肯定したことになってしまう。八右衛門の言葉はみな道理である。にもかかわらず、それがすべて忠兵衛を追い詰める方へ向かっている。
 そう、「正しすぎてはいけない。」と聖書にある。
 正しいから受け入れられるのではない。むしろ正義に攻め立てられると、逆上して正義を否定するのが人の心。ましてここで梅川に自分の状態を悟られては、尚さら引っ込みはつかない。こうして正しさのゆえに、梅川の情けのゆえに、忠兵衛は罪人となってしまう。

   和生の梅川は、この男の短慮を嘆きつつ、こうなればどこまでも、という一途な思いを見せる。
 梅川が「二人で死ねば本望」と言うのに、忠兵衛は「生きらるるだけ添わるるだけ、たかは死ぬると覚悟しや」といいつつ少しでも逃げて生き延びようとする。
 梅川には恋に殉じる覚悟があるのに、忠兵衛は、まだ自分のしでかしたことを受け止め切れない不安定さがある。
 そう、ここの忠兵衛は、自らの身うちの狂気に捉われ、道を踏み外した者として描かれた。自らも持て余すほどの恋の狂気、その妖しさ、それに取り付かれた人間の弱さを、簑太郎は見事に描いて見せた。和生は、その品ある遣い振りで、遊女なれど心は貞女の梅川の愛らしさ、恋する女の一途さを表現しえた。

 そして英大夫の八右衛門の造形。
 理をもって迫ればかえって相手を抜き差しならぬ悪へと追い詰め、踏み出させる。近松の他の悪役―「曽根崎」の九平次の世俗悪や「油地獄」の与兵衛の放埓とは違う、世知に長けた、一見善意の顔をして迫ってくる敵。
 なんと近松は、人の心に精通していたことだろう。
 言ってみれば、ここでは、身のうちに潜む恋の狂気に捉われた忠兵衛が、八右衛門に代表される世間の理(義理ではない)という壁にぶつかり、かえってその狂気を顕わにし、結果として滅亡へと陥ってゆく、運命の残酷さであり、人の内なる狂気への恐れを描いている、といえるのではないだろうか。
 英の語りはこうした人の心の複雑さ、やるせなさを見事に描くものであり、清介の三味線は、物語の全体を見通して舞台を引き締めた。

 さらに、この次の班の舞台を見て、もう一度驚かされた。全く違う忠兵衛、もう一人の梅川、それが生きて輝いていたからだ。
 玉女の忠兵衛は、都会の水になじんだとはいえ、どこか純朴さを残す好青年である。
 彼は努力して、大阪の商家のしきたりになじみ、風雅も一人前にこなすようになった。だが、どこか自分の出自にコンプレックスを持っているのではないだろうか、と思わせられた。
 忠兵衛は確かに梅川への思いに捉われているが、どこか甘い。封印を切るほどの覚悟は最初はなく、ただ単に近所まで来てしまってやはり離れがたく感じて、うかうか来てしまった。
 そこで彼は、信じてきた友の裏切りに会う。義母の前では男気ある友であった八右衛門が、自分の値踏みをし、あまつさえ自分と梅川の仲を裂こうとしている。
 養子である彼には、養家の身代を値踏みされることも、面目を潰されることも、自分をまるごと否定されるような想いであったに違いない。
 もし実の子であったら、こんなもんや、ですますこともできたかもしれない。そう、玉女の忠兵衛は、友を信じるほどの純粋さを持った青年が、裏切られ、恥をかかされ、自分の全存在を否定された、その怒りで封印を切ったように思われた。

 そして清之助の梅川。出の貫禄と憂いの表情。
 この梅川は、自分が遊女であることを自覚している女だ、と思った。
 確かに忠兵衛に惚れてはいるが、自分が遊女であるために、彼を窮地に陥れていることを知っている。彼と結ばれることを願うのは、かえって彼を苦しめることになる。そのことが梅川を苦しめる。
 彼女には、そうした自責の念がほの見える。だから、忠兵衛が他人の金を横領して自分を身請けしたと知ったとき、彼女はその罪責意識から、忠兵衛と共に行くことを決意するのである。幕切れに二人が抱き合う姿の、なんと美しくいじらしいことか。
 こうした梅川像を創造できたのは、三輪大夫の品ある、大きい語りのゆえであると思う。
 彼の浄瑠璃には嫌みや臭みがない。人の善意を信じられる。しかしそうした純粋な若者たちが、金やら色里の仕組みやらによって足をすくわれ、滅んでいく悲劇として納得させた。清友の三味線が、その豊かな情味を聞かせた。

 私は彼らの舞台を見た後、身震いする思いだった。30年を超える芸歴、優れた資質、絶え間ない努力、そして自分の役柄への理解を通して、何かを表現しようとする意志の激しさ。
 確かに、大師匠たちのそれとは違う、彼ら独自の「冥土の飛脚」を伝えられた、と思った。

 無論、どちらの舞台も、若手の健闘が光っていた。
 かむろを演じた玉翔は何かしら目を引きつけられるし、幸司も腕を上げた。
 花車の清五郎、和右もしっとりと、心で受ける演技。敵役は演じにくかろうが、文司は芸達者な所を見せる。
 文字久、南都は忠兵衛の甘さや心の動きを魅力的に聞かせる。
 だが、それでも、まだ彼らは英、三輪、簑太郎、玉女、清之助らのレベルに達していない。届きそうで届かないその差。そこに、彼らが修行を続ける意味がある。
 たとえば緑大夫や鶴沢八介らのように、道半ばで倒れることがあっても、それでも上を目指し、どこがどう違うのか、自らの身体で会得したもののみが、その差を越えることができる。
 その狭い道を、歩んでいく覚悟があるのか。

 そう、この舞台は、彼らの、もう一つの意志表示であったのだ。
 終わりない芸の道を歩んでいくことへの、そしてその困難を引き受け続けることへの。そして私たちも、その意志を受け止め、彼らの舞台を見つめ続けていきたい。